放送法制定の歴史のススメ-③放送法案の再度国会提出まで

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放送法制定の歴史のススメ②の続きです。

放送法制定の歴史のススメ②では、ファイスナー・メモを参考にしながら第一次放送法案が作成されたものの、芦田内閣から吉田内閣に代わり、”行政委員会に反対”という理由から法案が撤回されたことや、GHQからも番組内容の規制に対して強い反対があったことを見てきた。

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さて、その後、放送法案はどのように国会に再度提出されたのだろうか。


第一次放送法案の修正

再度、放送法案が国会に提出されたのは、1949年12月22日のことだ。第一次放送法案が撤回されてから約1年超かかっている。その間に、いったい何があったのだろう。法案は何度か修正がなされている。

まず、最初の修正がなされた法案が1949年3月1日付けの放送法案だ。GHQ法務局が指摘したニュース放送に関する規制の第4条が全面削除され、その他の指摘についても検討が加えられたものだった。この時点では、第一次放送法案と同様に、政府から独立した「放送委員会」制度が採られていた。放送委員会は、内閣総理大臣の所轄の下に置かれ、「独立してこの法律の規定に基く権限を行う」とされていたのだ(第7条)。この時点では、まだ吉田首相の行政委員会方式に反対という立場は反映されていなかったようだ。 そのせいかどうか不明だが、この3月1日付け法案は国会には提出されなかった。


4つの重要点――GHQの勧告

そのうち6月23日になって、GHQ民間通信局のバック局長およびファイスナー氏と、官房長官および電気通信大臣(注:逓信省は電気通信省と郵政省の二省に分離)が法案について会談する。バック局長は、民間通信局と民間情報教育局の一致した意見だとして、無線法(注:放送法のことと思われる)を次期国会に提出するよう求め、次の4点を重要点としてあげた。

  1.  無線規律委員会(Radio Regulatory Commission: RRC)を総理大臣の下に作ること
  2.  一般放送局を許可すること
  3.  プログラム編集の自由を認めること
  4.  協会の改組

「無線規律委員会」とは、放送を含む電波監理行政全般についての行政委員会のことだ。放送法案の「放送委員会」、つまり放送に関する委員会だけの設置ではダメ、足りないということになったということだろう。しかし、日本政府は、行政委員会制度は日本の統治機構になじまないという考えをもっており、GHQとは意見を異にしていた。 この日、バック局長は、無線委員会の構成、委員会の職能、協会の改組について詳しく説明し、放送法案の再考を求めたのだ。

電波監理委員会の設置――日本政府とGHQの攻防

占領下にあった日本は、GHQの承認がなければ事実上法律案を国会に提出できない状況にあった。そこで、電気通信省では放送法案を練り直し、1949年10月12日に、再度修正された放送法案が閣議決定された。 この放送法案には、第2章の放送委員会の規定がそっくり削除され、放送委員会に代わるものとして、電波監理委員会が構想され、電波監理委員会法案が別途作成された。 電波監理行政全般を担う行政委員会の設置に反対していた日本政府は、電波監理委員会の委員長を国務大臣とし、委員会の議決に対して内閣が再議を命ずることができるとしていた。 電波法案、放送法案、電波監理委員会法案――「電波三法」案が作られたのだ。 そして10月中旬、政府はGHQに法案の承認を求めた。

ところが、GHQは、委員会の性質について問題を提起する。 電波監理委員会法案の中に、委員会の決定を内閣の決定に完全に従属させる条項(委員長が国務大臣とする条文、および委員会と内閣との関係に関する条文)があるため、電波監理委員会が政権をもつ主要な政治権力の支配下に置かれることになるというのであった。つまり、委員会は行政機関にとどまらず、準立法的、準司法的権能をもち、中立、公平、超党派的な立場で決定を下すのであって、できるかぎり独立のものとすべきであるというのである。(以上、1949年10月28日増田・リゾー会談報告、放送法制立法過程研究会編『資料・占領下の放送立法』〈東京大学出版会、1980年>) これに対して、日本政府は、憲法の規定を根拠に行政責任の問題をとりあげ、委員会も内閣の監督に服する必要があると力説し、日本政府とGHQとの間で激しい議論が交わされたようであった。


マッカーサー元帥の書簡

そして、1949年12月5日に、GHQ最高司令官マッカーサー元帥から吉田首相にあてて書簡が出された。 マッカーサーは、60年にわたるアメリカの経験から、放送の規制は行政委員会に委ねるのが望ましく、立法的、司法的、行政的権限を行使する必要があり、次の3つの基本的性格を行政委員会はもつことが不可欠であると指摘する。

  1.  その委員は、規制分野の専門家から成る職員の補佐を得て、当該問題を賢明に解決できる広い知識、背景、経験、そして健全な判断力をもつ一般市民で構成する必要がある。
  2.  委員会の決定は、充分な討議と審議の末に、各自対等な立場の委員達の多数決によって行わなければならぬ。
  3.  委員会は、いかなる党派的勢力、その他の機関による直接的統制または影響を受けないものとしなければならぬ。
放送法制立法過程研究会編『資料・占領下の放送立法』(東京大学出版会、1980年)から引用

マッカーサーは、この基本的性格のうち、電波監理委員会設置法案は、1と2は十分に組み入れており、審議手続などについては規定が行き届いていると評価した。しかし、最後の3については不完全であり、国務大臣が委員長で、内閣が委員会の決定を覆すことができるのは、委員会の独立性を完全に否定するものであって、委員会を内閣の単なる諮問機関にすることにほかならないと記した。

この書簡をGHQの命令と解した日本政府は、電波監理委員会を総理府の外局に設置し、内閣の再議の要求権の規定を削除するなどして、委員会の独立性を確保するよう法律案を修正した。 こうして、1949年12月22日、電波法案、放送法案、電波監理委員会設置法案が国会に提出された。

先回りになるが、電波監理委員会は、サンフランシスコ講和条約の発効とともに日本が占領を脱し国際社会に復帰した1952年に、吉田内閣によって廃止された(8月1日とのこと)。わずか2年間の命だった。以後、郵政省が放送行政を担うことになった。

次回の放送法制定の歴史のススメ④では、放送法が成立したときの国会審議での修正点、とくに番組編集準則のところを考えてみたい。

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