放送法制定の歴史のススメ-⑤電波監理委員会の成立と廃止

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放送法制定の歴史のススメ④では、国会審議での修正が番組編集準則に関係していることを見てきた。

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今日は、電波三法が成立して新しい放送制度が始まった後わずか2年で起きた電波行政の大きな変化について考えてみることにする。電波監理委員会の廃止だ。


電波監理委員会とは

電波監理委員会とは、電波行政をつかさどる行政委員会だった。行政委員会とは、複数の委員による合議制を採り、行政部門から独立した形で行政権を行使する行政庁のことをいう。準立法機能や準司法機能を有することが多い。公正取引委員会や労働委員会などを思い浮かべればイメージが沸くだろう。最近の例では、個人情報保護委員会がある。 電波監理委員会は、かつての総理府の外局に設置された。総理府とは、2001年に内閣府に改組されたが、内閣総理大臣の事務や各行政機関の総合調整に関する事務を担当した行政機関である。

電波監理委員会が設置された理由、委員会の性質について、網島毅電波監理長官が衆議院電気通信委員会(1950年1月24日)で、電波管理委員会設置法案の趣旨を詳しく説明している。少し長くなるのだが、当時の考え方がよくわかるので引用してみたい。

電波監理委員会設置法案は、電波の管理及び放送の規律に関する行政の重要性にかんがみまして、その担当行政機関といたしまして、アメリカ合衆国の独立行政委員会の制度にならいましたところの、電波監理委員会を総理府の外局として設けようといたしますものでございまして、この委員会の設立とともに、現在右の行政の担当機関でありますところの電気通信省の外局たる電波庁は、これをこの委員会の事務局でありますところの電波監理総局に、移行させようというものでございます。

この法案の趣旨を簡單に御説明申し上げますと、現在、電波管理及び放送の規律に関する行政は、電気通信省の所管とせられておりますが、御承知のごとく電気通信省は管理行政のために、みずから多数の無線施設を建設し、維持し、運用しているものでございます。この二つの機能は、完全に相違したものでございまして、両者を同一の機関で行いますことは、電波管理行政の真に公平な実施を確保いたします意味におきまして、妥当を欠くうらみがあるのでございます。従つて電気通信省の外に、電気通信省、国家公安委員会、海上保安庁、気象台その他の国家機関、都道府県等の自治体、並びに船舶無線施設者、漁業無線施設者、日本放送協会、日本国有鉄道等、すべての個人または団体の無線施設についての行政を行う機関を設けることといたしまして、それを各省に対して最も公平な行政を確保する必要も考慮いたしまして、総理府の外局として設けることにしたのでございます。

この行政機関をいかなる形で構成するかという点につきましては、第一に、電波管理及び放送の規律がきわめて公平に行われなければならないこと。第二に、そのためには一党一派、その他一部の勢力からの支配から分離したものでなければならないこと。第三に、その機関の政策には相当長期にわたつて、政変等によつて容易に変動しない恒久性を持たせるとともに、時代の変遷に伴つて漸進的に改まつて行く改変性をも與え得るようにいたしましてこの両者の調和を確保し得るようにしなければならないこと。第四に、その機関の機能といたしましては、前に電波法案の項で申し上げましたように、單に行政の執行ばかりではなく、半立法的あるいは半司法的なものをも果さなければならないことというようなことを考慮いたしました結果、委員会制をとることといたしまして、その委員長及び委員の任命、任命要件、欠格事項、任期、罷免、会議手続等につきまして、詳細な規定を設けた次第でございます。 衆議院電気通信委員会1950年1月24日会議録より)

この中で、”電波管理及び放送の規律をきわめて公平”に行わなければならないため、”一党一派、その他一部の勢力からの支配から分離した機関”にする必要があったと指摘されていることは、よく覚えておく必要があるだろう。

さて、電波監理委員会は、具体的にはどのような事務をし、どのような権限を持っていたのだろう。その事務や権限はずいぶん広く、法律では次のように書いてあった。少々古いのだが、放送について政府から独立した行政機関の設置を議論する際に参考になると思われるので省略しないで紹介する。

条文は、衆議院のウェブサイトに全文が掲載されている。


電波監理委員会の所掌事務

(所掌事務)

第3条 電波監理委員会は、左に掲げる事務をつかさどる。

一 無線局の開設根本的基準を定めることその他無線局(高周波利用設備を含む。以下同じ。)の免許等に関すること。

二 無線設備(高周波利用設備を含む。以下同じ。)の技術基準を定めること。

三 無線局の運用に関すること。

四 無線従事者国家試験に関すること。

五 無線従事者の免許に関すること。

六 日本放送協会に関すること。

七 電波監理委員会の処分に対する異議の申立の聴聞に関すること。

八 前各号に掲げるものの外、電波及び放送の規律に関すること。

そして、委員会の委員の組織については、次のようになっていた。

(権限)

第4条 電波監理委員会は、この法律に規定する所掌事務を遂行するため、左に掲げる権限を有する。但し、その権限の行使は、法律(これに基く命令を含む。)に従ってなさなければならない。

一 予算の範囲内で所掌事務の遂行に必要な支出負担行為をすること。

二 収入金を徴収し、所掌事務の遂行に必要な支払をすること。

三 所掌事務の遂行に直接必要な事務所、業務施設、研究施設等を設置し、及び管理すること。

四 所掌事務の遂行に直接必要な業務用資材、研究用資材、事務用品等を調達すること。

五 不用財産を処分すること。

六 職負の任免及び賞罰を行い、その他職員の人事を管理すること。

七 職員の厚生及び保健のため必要な施設をし、及び管理すること。

八 職員に貸与する宿舎を設置し、及び管理すること。

九 所掌事務に関する統計及び調査資料を作成し、刊行し、及び頒布すること。

十 所掌事務の監察を行い、法令の定めるところに従い、必要な措置をとること。

十一 所掌事務の周知宣伝を行うこと。

十二 電波監理委員会の公印を制定すること。

十三 所掌事務に係る公益法人その他の団体につき、許可又は認可を与えること。

十四 所掌事務に関し、報告を徴すること。

十五 電波の利用に関する業務及び技術の研究及び調査であつて、所掌事務を遂行するのに必要なものを自ら行い、又は自ら行うことを不利と認める場合にこれを部外の研究機関に委託すること。

十六 所掌事務を遂行するのに必要な特許権及び実用新案権並びにこれらの実施権を取得すること。

十七 条約により定められた範囲内において電波の管理に関する国際的取極を商議し、及び締結すること並びに国際電気通信連合その他の機関と連絡すること。

十八 無線局の開設を免許し、又は承認すること。

十九 無線局についてその無線設備、無線従事者の資格及び員数等を検査すること。

二十 電波を監視し、及び規律すること。

二十一 周波数標準値を定め、標準電波を発射し、及び標準時を通報すること。

二十二 電波が伝わる状況を予報し、及び電波の伝わり方の異常に関して警報を発すること。

二十三 無線設備の技術基準を定めること。

二十四 委託により、無線設備の機器の型式検定をすること。

二十五 無線従事者国家試験を行い、及び無線従事者免許を与えること。

二十六 委託により、無線設備の性能試験及びその機器の較正を行うこと。

二十七 委託により、無線局の周波数を測定すること。

二十八 日本放送協会の定款の変更を認可すること。

二十九 日本放送協会に対し、国際放送を行うべきことを命ずること。

三十 日本放送協会とその放送を受信する者との契約の条項を認可すること。

三十一 日本放送協会の放送設備の譲渡、賃貸等につき認可すること。

三十二 日本放送協会が放送受信用機器の修理業務を行うことができる場所を指定すること。

三十三 前各号に掲げるものの外、法律(これに基く命令を含む。)に基き、電波監理委員会に属させられた権限

こうした広い事務・権限を担う組織である以上、委員会の委員の人選は重要になってくる。どうなっていたのだろうか。電波監理委員会設置法を見てみよう。

電波監理委員会の委員の組織

(組織)

第5条 電波監理委員会は、委員長1人及び委員6人をもって組織する。

(委員長及び委員の任命)

第6条 委員長及び委員は、公共の福祉に関し公正な判断をすることができ、広い経験と知識を有する者のうちから、両議院の同意を得て、内閣総理大臣が任命する。

<中略>

4 委員長及び委員の任命については、4人以上が同一の政党に属する者になることとなってはならない。

「公共の福祉に関し公正な判断をすることができ、広い経験と知識を有する者」とある。総務省のウェブサイトに掲載されている資料原田祐樹「電波監理委員会の意義・教訓 」によると、最初の委員会は次の委員で構成されていた。委員長・副委員長は、つまり逓信省関係の役人だったらしい。大学教授1人を除くと委員は役人でまとめられている。

委員長:富安謙次(元・逓信事務次官)

副委員長:網島毅(元・電波監理長官)

委員:岡咲恕一(法務府法制意見局第一部長)

委員:瀬川昌邦(元・東京都電機試験所長、電気通信省運営審議会委員)

委員:坂本直道(元・満鉄欧州出張所長)

委員:抜山平一(東北大学工学部教授、電波技術審議会委員)

委員:上村伸一(元・満州国駐在公使)

なお、網島毅氏は、その後第二代の委員長となっている。


”放送法を襲った悲劇”

電波監理委員会は、結局1952年8月1日に吉田茂内閣によって廃止されてしまう。 放送界の第三者機関であるBPO(放送倫理番組向上機構)・放送倫理検証委員会の委員長代行で、国際的に知られる映画監督である是枝裕和氏は、ブログKORE-EDA.comの「誰が何を誤解しているのか~放送と公権力との関係についての私見②~」で、電波監理委員会の廃止を「2年後、さらに大きな悲劇が放送法を襲います」と表現している。是枝監督の私見とは、自分は若干意見を異にするところがあるのだが、このブログの記事は放送法の歴史を知るための最もわかりやすい解説の一つといっていいだろう。

1951年9月にサンフランシスコで開かれた平和会議に、吉田茂首相らが出席して平和条約を受諾し、11月18日に国会で平和条約が批准され、(10月26日衆議院承認、11月18日参議院承認)、1952年4月15日にアメリカの批准を経て、4月28日に条約が発効するところとなった。日本は国際社会に復帰したわけである。 外務省のウェブサイトに、サンフランシスコ平和条約の調印・発効に関する説明が書かれている。

これと並行して、国内では行政機構改革が進められていく。日高六郎編『戦後資料 マスコミ』に、郵政省編『続逓信事業史』第6巻よりとして、電波監理委員会の廃止経過が示されている。

機構改革の構想決定

昭和27年2月12日の閣議において、木村国務大臣(第3次吉田内閣行政管理庁長官)から、かねて検討中の行政機構改革案についての構想が述べられ、その後、同大臣から関係大臣に個別の説明が行われていたが、2月21日、電波監理委員会に対して、その内容が伝達された。その要旨は次のとおりであった。

⑴ 各種の行政委員会は、審判的機能を主とするものを除き廃止し、その事務は各省に分属させる。

⑵ 電波監理委員会は廃止し、交通省(または運輸通信省)に、電波の管理および有線電気通信の監督を行なる内局として電気通信監理局を設ける。

⑶ 付属機関の整理は、次期国会において立法化を行なう目途のもとに、ひきつづき検討を行なう。

⑷ 今回の改正は、機構の改正であって、人員の整理が当然に行なわれるものでない。

⑸ 設置法改正案は、各省ごとに立案のうえ、3月上旬までに国会に提出できるようにする。改正法律の施行は、7月1日とする。

電波監理局の発足

昭和27年4月5日の閣議において、前述の構想が一部修正されたうえ、「行政機構改革に関する件」として正式決定をみた。これによれば、電波監理委員会を廃止し、郵政省に内局として電波監理局を設け、次長2人を置き、審議機関を付置するというものであった。


行政委員会方式の先取り

一般に、電波監理委員会は、GHQの意見によりアメリカのFCCにならって設置されたと考えられており、国際社会に復帰した日本が、GHQの指示と異なる意見を持っていた部分は元に戻そうしたのは当然と考えるむきもあろう。しかし、GHQがファイスナー・メモにより意見を表明する前に、日本の民間人が行政委員会方式を提案していたという歴史があることを覚えておいてもいいのではないだろうか。

1945年12月11日、GHQ民間通信局(CCS)から逓信省に対し、「日本放送協会の再組織」と題するメモが渡された。民間通信局局長のハンナ―大佐の名前をとって、通称「ハンナー・メモ」と呼ばれている。 「政府当局の極度の強制によって、放送協会の運営は弱められ、この統制の結果世論を表現する重要なる機関の管理及び運営に関し日本国民は過去のある期間及び今日に於いて発言権を有しをらず」。そして、ラジオ放送を運営のすべての面において公共機関として確立するために手段をとるべきとして、日本放送協会会長に助言するために、各分野を代表して15人から20人の男女を選び顧問委員会を結成することが示唆されていた(放送法制立法過程研究会編『資料・占領下の放送立法』〈東京大学出版会〉によれば、国立公文書館蔵内閣官房総務課資料『終戦関係書類』とのことである)。顧問委員会の仕事は、日本放送協会の会長候補者3名の推薦、会長及び理事会に対する助言、放送の倫理規範のGHQへの提出、日本の大衆がその所有に参加できるよう放送協会を再組織することについて考えること、などが含まれていた。

顧問委員会は、「放送委員会」として発足し、逓信省とGHQ民間情報教育局(CIE)の推薦者のほぼ半数ずつの17人が選ばれた。連合国対日理事会第22回会議(1946年12月23日)の配布資料によると、非常に多彩な人材からなる民間人が委員となっている。「婦人」という表現が時代がかっているものの、人選に民主化に向けた意気込みのようなものが感じられる。 残念ながら放送委員会は、法律によって設置されたものでなかったことや、米ソ対立を背景とするアメリカの占領政策の転換の中で活動が困難となり、1949年4月5日に消滅してしまう。

放送委員会委員

実業代表 川勝堅一(高島屋百貨店常務取締役)

農業代表 近藤康男(農業博士、東京帝国大学教授、農業経済学)

科学技術代表 濱田成徳(委員長、東京芝浦電気研究部長)・渡辺寧(工学博士、東北帝国大学工学部教授)

財政代表 堀頸夫(大阪産業大学教授、前京都帝国大学経済学部教授)

報道出版代表 小林勇(岩波書店支配人)

演劇・芸術代表 土方与志(演劇作家)、大村英之助(朝日映画社専務取締役)}

学界代表 滝川幸辰(京都帝国大学教授)

労働代表 島上善五郎(交通労働組合書記長)、聴濤克巳(産別議長)

婦人代表 加藤静江(衆議院議員)、宮本百合子(作家、評論家)

青年代表 瓜生忠夫(大学新聞編集員)、槙ゆう子(婦人評論家)

宗教代表 矢内原忠雄(東京帝国大学教授、在野宗教家)

放送委員会が行ったすぐれた仕事の一つに、「放送委員会要綱」がある。1947年10月1日付けのもので、日本の放送のあり方を決定づけたとされるファイスナー・メモ(放送を管理する自治機関を行政委員会方式を取り入れて設置することを示唆、1947年10月16日)が日本に示される前に、すでに日本の民間人は、放送の民主化に向けて尽力していたのだ。ファイスナー・メモについては、放送法制定の歴史のススメ①で紹介したので、そちらを見てほしい。

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放送委員会による「放送委員会要綱」の内容は、松田浩『ドキュメント 放送戦後史Ⅰ 知られざるその軌跡』に載っている。それによれば、要綱には次のことが書かれていた。

<基本方針>

一 日本における放送事業を民主的に管理運営するために放送委員会を設ける。

二 放送事業を次の二種とする。

(イ)中波による無線電話放送事業

(ロ)その他の放送事業、短波及び超短波による無線電話放送事業、テレプリンターによるファクシミリ放送、テレビジョン放送、有線放送の事業

三 全国的放送網をもつ中波による無線電話放送事業の社会的公器としての重要性にかんがみ、現在の社団法人日本放送協会による独占的経営形態を廃止して、中波放送運営委員会の経営に移し、事業の民主化をはかり真に国民のための放送たらしめる。

四 新たに中波による放送事業を営まんとするものは放送委員会の許可を得なければならない。

五 中波以外の放送事業は、将来経済上技術上の情勢がこれを許すに至れば、放送委員会の定める条件を備えたものに許可するものとする。

名称が要綱を起草した放送委員会と同じ「放送委員会」であるため、少々分かりにくいのだが、「放送委員会法にもとづく特殊法人」として政府から独立した機関として、放送事業を管理するという内容だった。21歳以上の公民権を有する男女30名ないし35名の合議体として、放送事業・放送行政への国民参加を目指したものだった。国会議員、地方議員、政党役員、放送関係の業者、放送局の役員は委員になれないとしていたが、その後、国会、衆・参両院から10名、役員を除く放送事業者から10名、現放送委員会およびその選ぶ者から10名で、放送委員選考委員会を設ける案も検討している。理想主義的な色彩の強いものであったかもしれない。しかしもしこれが実現していれば、放送行政は今日とはまったく異なるものとなっていたにちがいない。 ファイスナーは、ファイスナー・メモを明らかにするときに、民間通信局(CCS)が逓信省の作成した新放送法案だけでなく、「労組、日本放送協会、放送委員会から提出された非常に優れたご意見も拝見した」と述べているから、この放送委員会の要綱が、ファイスナー・メモにも反映された可能性も大いにありうるのである。 経過からみて、GHQの方針にしたがって、日本がいやいや電波三法を作ったということはないだろう。少なくとも、放送の民主化を、各界を代表する民間人グループが強く求めていたことは銘記しておきたい。


行政委員会方針をめぐる攻防

ファイスナー・メモから約8か月後の1948年6月18日、第一次放送法案が国会に提出される。この法案の第二章が「放送委員会」であり、内閣総理大臣の所轄の下に置かれ、独立して幅広く放送行政を行う権限を与えられていた。つまり行政委員会方針が採られていたわけである。委員は5名で、「公共の利益に関して公正な判断をすることができ、且つ、広い経験と卓越した識見を有する」年齢35歳以上の者のうちから、両議院の承認を経て総理大臣が任命することを予定していた。 提出時期が国会閉会間際だったものの、参議院では修正案も作られ、次期国会での成立を目指す向きもあった。 ところが、GHQと日本政府の意見の食い違いや、GHQ内部の意見の不一致などから、つぶされる運命をたどる。

GHQの示唆する行政委員会方式では、行政権の一部を掌握することができなくなるため、放送免許の許認可業務を手放すことは官僚や政治家にとって受け入れられないものだったようである。芦田均内閣の昭電疑獄事件による内閣総辞職によって、政権を担うことになった第二次吉田茂内閣は、11月に法案を撤回してしまう。 一方、GHQ内部も法案支持でまとまっていたわけではなかったようである。それを示す手がかりは、法案が撤回されたにもかかわらず、ニュース報道に関する準則の全面削除を求めたGHQ法務局(LS)である。当時、国会に提出する法律はGHQの承認が必要だったようであるから、第一次法案が国会に提出されたのは、GHQの一部にはOKの法案と考えられていたことがうかがえるのである。むしろニュース報道の規制は、GHQ情報教育局(CIE)の強い要求だったという見方すらある(松田浩『ドキュメント 放送戦後史Ⅰ 知られざるその軌跡』112頁)。

その後電気通信省(逓信省が郵政省と電気通信省に分離)の外局の電波庁が法案作成を担うのだが、GHQと日本政府の意見の食い違いは残りつづける。「放送法案要綱」(6月17日にGHQへ提出)の登場だ。放送委員会を廃止して放送行政を電気通信大臣の権限に移し、重要事項に限り総理大臣が任命する「放送審議会」に諮るという内容のものだった。ちゃぶ台返しといっていいだろう。第一次放送法案で構想された放送委員会は、ここで早くも挫折してしまう。 しかし、これはGHQの放送をめぐる政策の否定にほかならない。翌日、GHQの民間通信局(CSS)局長バック代将は、電気通信大臣と官房長官を招き、次の勧告を行う(いわゆる「バック勧告」)。

⑴ 無線法を次期国会に提出すること。

⑵ 次の4点を考慮すること。

 ⒜ 無線規律委員会を総理大臣の下に作ること。

 ⒝ 一般放送局を許可すること。

  ⒞ プログラム編集の自由を認めること。

  ⒟ 協会の改組

⑶ 無線委員会の構成

  ⒜ 委員数は5名ないし7名とすること。

  ⒝ 国会の承認を得て総理大臣が任命すること。

  ⒞ 委員は経済、実業、政府、文化の各方面から選ぶこと。

 ⒟ 通例の制限すなわち追放者、政党者等に対する制限は適用すること。

  ⒠ 国内を7区域に分ちて観察し、1の地域から2人以上の委員が出てはならない。

<中略>

⑸ 協会の改組

  ⒜ 公共事業体を創設する。

  ⒝ 性質は半官的であるが政府の「コントロール」はできるだけ受けないような組織にする。その職能は全国的及び地方的な放送を公共の利益に適するように行うこと。公共の利益に適合するか否かは電波庁が判定する。    ⒞ プログラムの編集の自由は如何なるものからも制限を受けない。プログラムの編集及び協会の運用については政府の制限を受けない。

<中略>

  ⒣ 協会にBoard of Directorsをおき、その内の8名は国会の同意を経て総理大臣が任命する。協会にはPresidentはおかないで、Chairman of directorをおく。

<以下、略>

このバック勧告を受けて、さらに電波法のほか、バック勧告に沿うよう放送法案・電波監理委員会設置法案の作成が進み、GHQ民間通信局(CSS)と了解に達して、1949年10月12日に閣議決定がなされる。

しかし、ここでGHQ民政局(GS)がまったをかける。 電波監理委員会設置法案に、委員長を国務大臣とする規定、委員会の決定について内閣総理大臣が再議を要求し、それに応じない場合には議決の変更を命じる規定があったためである。 すでにCSSの同意を得ていると考え修正を不要と考える日本政府とGHQ民政局との交渉は難航する。日本政府は、憲法の責任内閣制を根拠に、国務大臣委員長制を譲ろうとしなかった。 事態の打開は、繰り返しになるが、吉田首相にあてたマッカーサーが書簡である。マッカーサーは、行政委員会の意義を詳しく説明し、政府から独立する形での行政委員会方式を強く勧告する。ここに至って、ようやく電波監理委員会設置法が修正され、国会に提出される運びとなる。

この立法経過からわかるように、日本政府は行政委員会方式には強い抵抗感があった。それが1952年の電波監理委員会の廃止につながっていくのである。