放送法制定の歴史のススメ――④国会審議での修正が現在まで尾を引く

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放送法制定の歴史③では、放送法を含む電波三法が国会に提出されるところまで見てきた。

 

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この記事では、国会で行われた審議について確認してみたい。

  • 国会に提出された電波三法
  •  国会審議――公聴会
  •  国会審議――番組編集準則の修正がのちのちまで尾を引く

 

国会に提出された電波三法

電波三法が国会に提出されたのは1949年12月22日だった。成立したのは1950年4月26日だ。5月2日に公布され、施行は6月1日。ちなみに、これを記念して6月1日は「電波の日」となり、毎年記念の式典などが行われている。

電波法は、無線全般に関する一般法である。放送は、電波法によって、無線局の免許、無線設備、無線従事者、運用、監督などの無線局の物理的な側面から規律されている。一方、放送法は、放送の普及、放送番組、放送局の運営のあり方という側面から放送を規律する法律だ(日本民間放送連盟編『放送ハンドブック[改訂版]97~98頁)。

そして、電波監理委員会設置法は、電波行政を担う電波監理委員会の所掌事務、権限、組織を定める法律だ。 電波三法が国会に提出されるまでの経過は、放送法制定の歴史③で詳しく書いたが、おさらいをかねて細かい経過も加えて表を作成した。

 

<電波三法の成立経過>

年   月  出来事
1946年 11月 日本国憲法公布、逓信省が無線電信法の改正に着手
1947年 2月 無線電信法改正案作成
  4月 無線電信法改正2次案作成
  5月 日本国憲法施行
  6月 無線法案のほかに日本放送協会法案の作成:電波監理と放送のあり方は別の法律で規律
  7月 放送事業法案の作成
  10月 GHQのファイスナーメモ:独立行政委員会制度による放送行政、NHKの公共企業体化、民間放送の開設
1948年 1月 放送法草案作成
  3月 第一次放送法案作成
  5月 GHQ通信局が放送法案について修正意見
  6月 修正を経た第一次放送法案の国会提出:NHKと民放、放送委員会の設置、しかし、GHQのプレスコードとラジオ・コードとそっくりな番組規律あり
  10月 芦田均内閣が、昭電疑獄事件で総辞職
  11月 吉田茂内閣発足、第一次放送法案を撤回:理由は独立行政委員会に反対
  12月 GHQ法務局が、第一次放送法案中の総則にある番組規律の削除を表現の自由の観点から要求
1949年 3月 放送法案の再作成:総則にある番組規律を削除
  6月 逓信省が郵政省と電気通信省に
  10月 放送法案の閣議決定。GHQ民政局が電波監理委員会の決定が内閣の決定に従属する条項があることについて疑義を呈する。電気通信省は、行政は内閣がその責任を負うと主張
  12月 マッカーサーから吉田首相へ書簡:電波監理委員会がいかなる党派的勢力、その他の機関による直接的統制または影響を受けないものとするよう要望。日本は受け入れ、電波監理委員会法を修正。電波三法を国会に提出
1950年 4月 電波三法が成立
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放送法制定の歴史のススメ-③放送法案の再度国会提出まで

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放送法制定の歴史のススメ②の続きです。

放送法制定の歴史のススメ②では、ファイスナー・メモを参考にしながら第一次放送法案が作成されたものの、芦田内閣から吉田内閣に代わり、”行政委員会に反対”という理由から法案が撤回されたことや、GHQからも番組内容の規制に対して強い反対があったことを見てきた。

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さて、その後、放送法案はどのように国会に再度提出されたのだろうか。

  • 第一次放送法案の修正
  • 4つの重要点――GHQの勧告
  • 電波監理委員会の設置――日本政府とGHQの攻防
  • マッカーサー元帥の書簡


第一次放送法案の修正

再度、放送法案が国会に提出されたのは、1949年12月22日のことだ。第一次放送法案が撤回されてから約1年超かかっている。その間に、いったい何があったのだろう。法案は何度か修正がなされている。

まず、最初の修正がなされた法案が1949年3月1日付けの放送法案だ。GHQ法務局が指摘したニュース放送に関する規制の第4条が全面削除され、その他の指摘についても検討が加えられたものだった。この時点では、第一次放送法案と同様に、政府から独立した「放送委員会」制度が採られていた。放送委員会は、内閣総理大臣の所轄の下に置かれ、「独立してこの法律の規定に基く権限を行う」とされていたのだ(第7条)。この時点では、まだ吉田首相の行政委員会方式に反対という立場は反映されていなかったようだ。 そのせいかどうか不明だが、この3月1日付け法案は国会には提出されなかった。


4つの重要点――GHQの勧告

そのうち6月23日になって、GHQ民間通信局のバック局長およびファイスナー氏と、官房長官および電気通信大臣(注:逓信省は電気通信省と郵政省の二省に分離)が法案について会談する。バック局長は、民間通信局と民間情報教育局の一致した意見だとして、無線法(注:放送法のことと思われる)を次期国会に提出するよう求め、次の4点を重要点としてあげた。

  1.  無線規律委員会(Radio Regulatory Commission: RRC)を総理大臣の下に作ること
  2.  一般放送局を許可すること
  3.  プログラム編集の自由を認めること
  4.  協会の改組

「無線規律委員会」とは、放送を含む電波監理行政全般についての行政委員会のことだ。放送法案の「放送委員会」、つまり放送に関する委員会だけの設置ではダメ、足りないということになったということだろう。しかし、日本政府は、行政委員会制度は日本の統治機構になじまないという考えをもっており、GHQとは意見を異にしていた。 この日、バック局長は、無線委員会の構成、委員会の職能、協会の改組について詳しく説明し、放送法案の再考を求めたのだ。

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【保存版・資料集】放送法4条1項の番組編集準則をめぐる大臣答弁と資料

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2015年から2016年にかけて、放送法・電波法をめぐる総務大臣の国会答弁が数多く報道されました。 

これまでの国会の議論は、国会会議録検索のウェブサイトから会議録を読むことができます。会議録から、放送番組編集準則をめぐる郵政大臣・総務大臣の主だった国会答弁を拾ってみました。参考になる資料も合わせてあげています。
国会答弁を見ると、郵政省・総務省の見解に変化があることが分かります。
注意が必要なのは、放送法の条文数が現在の条文数と違っていることです。答弁の中で[注:現在の○○条]という注意書きをつけておきました。

  • 放送法案の提案理由:網島毅電波監理庁長官の説明(1950〈昭和25〉年1月24日第7回国会衆議院電気通信委員会議録第1号)
  • 郵政省「放送関係法制に関する検討上の問題点とその分析」(362頁)
  •  廣瀬正雄郵政大臣答弁(1972〈昭和47〉年6月8日第68回参議院逓信委員会会議録第20号)
  • 石川晃夫郵政省電波管理局長答弁(1977年〈昭和52年〉4月27日第80回国会衆議院逓信委員会会議録第13号)
  • 鴨光一郎郵政省電波監理局放送部長答弁(1977年〈昭和52年〉4月27日第80回国会衆議院逓信委員会会議録第13号)
  • 左藤恵郵政大臣(1985年〈昭和60年〉2月8日第102回国会衆議院予算委員会会議録大臣第7号)
  • 中曽根康弘総理大臣答弁(1985年〈昭和60年〉2月8日第102回国会衆議院予算委員会会議録第7号)
  • 木下昌浩郵政省放送行政局長答弁(1993年〈平成5年〉2月22日第126回国会衆議院逓信委員会会議録第4号)
  • 江川晃正郵政省放送行政局長答弁(1993年〈平成5年〉10月27日第128回国会衆議院逓信委員会会議録第2号)
  • 麻生太郎総務大臣答弁(2005年〈平成17年〉8月3日第162回国会参議院本会議会議録第33号)
  • 菅義偉総務大臣答弁(2007年〈平成19年〉3月20日第166回国会衆議院総務委員会会議録第4号)
  • 菅義偉総務大臣答弁(2007年〈平成19年〉5月22日第166回国会衆議院本会議会議録第33号)
  • 原口一博総務大臣答弁(2010年〈平成22年〉5月18日第174回国会総務委員会会議録17号)
  • 平岡秀夫総務副大臣答弁(2010年〈平成22年〉11月26日第176回国会総務委員会会議録第6号)
  • 高市早苗総務大臣答弁(2015年〈平成27年〉5月12日第189回国会参議院総務委員会会議録第8号)
  • 高市早苗総務大臣答弁(2016年〈平成28年〉2月8日第190回国会衆議院予算委員会会議録第9号)
  • 「政治的公平の解釈について(政府統一見解)」(2016年〈平成28年〉2月12日)

古い資料は1950年にさかのぼります。
放送法案が国会に提出されたときに、政府委員の網島毅電波監理庁長官が国会で提案理由を説明しています。
放送法は電波法と電波監理委員会設置法と一緒に国会に提出され、「電波三法」と呼ばれました。
ここから出発です。

 

放送法案の提案理由:網島毅電波監理庁長官の説明(1950〈昭和25〉年1月24日第7回国会衆議院電気通信委員会議録第1号)

「放送法案は、第一條に示してございます三大原則に従いまして、放送を公共の福祉に適合するように規律いたしまして、その健全な発達をはかることを目的として立案されたものでございます。この法案も、放送の経営及び規律に関する各国の例を研究調査いたしまして、その長所をとり、かつわが国の国情も十分考慮して立法したものでありまして、放送立法について世界に一つの新例を開くものでございます。」

 

「放送番組につきましては、第1条に、放送による表現の自由を根本原則として掲げまして、政府は放送番組に対する検閲、監督等は一切行わないのでございます。放送番組の編集は、放送事業者の自律にまかされてはおりますが、全然放任しているのではございません。この法律のうちで放送の準則というべきものが規律されておりまして、この法律で番組を編成することになっております。」

 

「次に電波監理委員会設置法の概要を申し上げたいと存ずるのであります。・・・この行政機関をいかなる形で構成するかという点につきましては、第一に、電波管理及び放送の規律がきわめて公平に行われなければならないこと、第二に、そのためには一党一派、その他一部の勢力からの支配から分離したものでなければならないこと、第三に、その機関の政策には相当長期にわたつて、政変等によつて容易に変動しない恒久性を持たせるとともに、時代の変遷に伴つて漸進的に改まつて行く改変性をも與え得るようにいたしましてこの両者の調和を確保し得るようにしなければならないこと。第四に、その機関の機能といたしましては、前に電波法案の項で申し上げましたように、單に行政の執行ばかりではなく、半立法的あるいは半司法的なものをも果さなければならないことというようなことを考慮いたしました結果、委員会制をとることといたしまして、その委員長及び委員の任命、任命要件、欠格事項、任期、罷免、会議手続等につきまして、詳細な規定を設けた次第でございます。」

 

この後、番組編集準則の解釈について参考になる資料として、1963年の『臨時放送関係法制調査会』に対し提出された郵政省の資料があります。

郵政省「放送関係法制に関する検討上の問題点とその分析」(362頁)

個々の放送内容については、前記の4原則が守られているか否か、また、教養、教育、放送および娯楽の放送番組の相互の間の調和がうまくとれているか否かの認定は、具体的に個々の放送番組内容にまで深く立ち入っていかない限り、到底できるものではない。個々の放送内容について、前記の4原則が守られていないことを挙証するのはきわめて困難であり、また、放改正をして許される範囲内での新たな法的規制を加えて遵守を義務づけうるとしても、これが遵守されていないことを挙証することは同様に困難であるというほかなく、結局は、最終的には訴訟によらなければどうにもならない問題であろう。

したがって、法に規定されるべき放送番組編集上の準則は、現実問題としては、一つの目標であって、法の実際的効果としては多分に精神的規定の域を出ないものと考える。要は、事業者の自律にまつほかない。

 

70年代と80年代は、番組編集準則は精神的規定つまり倫理規定だという立場が続きます。いろいろな答弁があります。

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放送法制定の歴史のススメ-②第一次放送法案の作成と廃案

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放送法制定の歴史のススメ①の続きです。 放送法制定の歴史のススメ①では、憲法改正に伴ってGHQから放送法制定の示唆を受けて、GHQの方針であるファイスナー・メモが出されたことまでをまとめた。

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放送法制定の歴史のススメ②では、ファイスナー・メモを参考にしながら放送法案が作成されていく過程を追ってみる。


第一次放送法案の国会提出

逓信省は、1947年10月のファイスナー・メモを参考にしながら、放送法案の作成を進めていく。 1948年2月、取りまとめた放送法案を、逓信省はGHQ民間通信局に提出して助言を求め、民間通信局は、民間情報教育局(CIE:Information and Education Section)、民政局(GS:Government Section)、経済科学局(ESS:Economic and Scientific Section)と協議を行い、修正意見を提示した。 これに基づいて逓信省は放送法案を修正し、1948年6月18日に国会に提出する。ここでは便宜的に「第一次放送法案」と呼ぼう。 提出時の総理大臣は芦田均だった。


第一次放送法案の内容:ニュース放送に関する原則

第一次放送法案は、第1章総則、第2章放送委員会、第3章日本放送協会、第4章一般放送局、第5章審理手続、不服の審理及び訴訟、第6章罰則、第7章雑則で構成されていた。おおむねファイスナー・メモに沿ったものといえるだろう。

しかし、ファイスナー・メモが示唆した「放送の自由」とは相反すると思われる規定がある。 第4条のニュース放送に関する原則を定める条文だ。内容を見てみよう。

(ニュース放送) 第4条 ニュース記事の放送については、左に掲げる原則に従わなければならない。 一 厳格に真実を守ること 二 直接であると間接であるとにかかわらず、公安を害するものを含まないこと 三 事実に基き、且つ、完全に編集者の意見を含まないものであること 四 何等かの宣伝的意図に合うように着色されないこと 五 一部分を特に強調して何等かの宣伝的意図を強め、又は展開させないこと 六 一部の事実又は部分を省略することによってゆがめられないこと 七 何等かの宣伝的意図を設け、又は展開するように、一の事項が不当に目立つような編集をしないこと 2 時事評論、時事分析及び時事解説の放送についてもまた前項各号の原則に従わなければならない。


この条文は、GHQが発した「日本新聞規則に関する覚書(プレス・コード)」(1945年9月19日)によく似ている。プレス・コードの内容も見てみよう。

1 ニュースは厳格に真実に符合するものたるべし。 2 直接又は間接公安を害するおそれある事項を印刷することを得ず。 3 連合国に対する虚偽又は破壊的批評を行わざるべし。 4 連合国占領軍に対する破壊的批評及び軍隊の不信若しくは憤激を招くおそれある何事もなさざるべし。 5 連合軍軍隊の動静に関しては公式に発表せられたるもの以外は発表又は論議せざるべし。 6 ニュースの筋は事実に即し編集上の意見は完全にこれを割くべし。 7 ニュースの筋は宣伝的意図をもって着色することを得ず。 8 ニュースの筋は宣伝的意図を強調又は拡大する目的をもって微細の点を過度に強調することを得ず。 9 ニュースの筋は関係事実又は細目を省略することによりこれを歪曲することを得ず。 10    新聞の編集においてニュースの筋は宣伝的意図を設定若しくは展開する目的をもってあるニュースを不当に誇張することを得ず。 放送法制立法過程研究会編『資料・占領下の放送立法』(東京大学出版会、1980年)から引用。旧字体は新字体に改めた。


プレス・コードの3日後の1945年9月22日には、「日本に与うる放送準則」(ラジオ・コード)がGHQから日本政府に発せられた。これもプレス・コードとほぼ同じ内容だった。

一 報道放送
A 報道放送は厳重真実に即応せざるべからず。
B 直接又は間接に公共の安寧を乱すが如き事項は放送すべからず。
C 連合国に対し虚偽若しくは破壊的なる批判をなすべからず。
D 進駐連合軍に対し破壊的なる批判を加え又は同軍に対し不信若しくは怨恨を招来すべき事項を放送すべからず。
E 連合軍の動静に関しては公式に発表せられざる限り発表すべからず。
F 報道放送は事実に即したるものたるべく且つ完全に編集上の意見を払拭せるものたるべし。
G いかなる宣伝上の企図たるとを問わず報道放送をこれに合致する如く着色すべからず。
H いかなる宣伝上の企図たるとを問わず軽微なる細部を過度に強調すべからず。
I  いかなる報道放送をも適切なる事実若しくは細部の省略によりこれを歪曲すべからず。
J      報道放送における報道事項の表現はいかなる宣伝上の企図たるとをとわずこれを実現し又は伸長する目的のために特定事項を不当に顕著ならしむべからず。
K 報道解説、報道の分析及び解釈は以上の要求に厳密に合致せざるべからず。 <以下、略>
放送法制立法過程研究会編『資料・占領下の放送立法』(東京大学出版会、1980年)から引用。旧字体は新字体に改めた。


プレス・コードやラジオ・コードは、GHQが日本の民主化を円滑に進めるために、報道を規制し検閲する目的をもっていたことは否定できない。しかし同時に、日本の新聞が戦前・戦中に戦争に関する真実を伝えず、戦争をあおるような宣伝を行ったことを改めることを求める意味もあっただろう。 憲法21条の表現の自由に基づいて放送の自由の原則に立っているはずの放送法案に、連合国に関する報道への規制を除くプレス・コードやラジオ・コードの規定が、なぜほぼそのまま盛り込まれたのだろう。

1947年6月時点では、逓信省が準備していた日本放送協会法案には、番組の内容に関する準則として、次のような内容が書かれていた。

1  協会は、社会の公器として、中波による無線 電信によって時事、教養、演芸その他の事項 を放送し、あまねく公平に、なるべく安い料金で、 公衆の聴取に供しもって国民文化の向上に資す ることを目的とすること。 11  放送事業の社会的意義に鑑み協会の放送 番組の編成には、傾向的性格があってはなら ないこととすること。 12  協会は、放送無線電話事業の独占に基く 欠陥を補うため、放送番組の編成には最善の 努力を払い、競争事業があると同様の効果を あげるよう処置しなければならないとすること。
荘宏・松田栄一・村井修一『電波法 放送法 電波監理委員会設置法詳解』(日信出版、1950年)

つまり、このときは、「あまねく公平に」放送することや、番組編成に「傾向的性格があってはならないこと」が盛り込まれているだけで、公安や真実性は問題になっていなかった。

この1947年6月の法案と第一次放送法案とは、番組内容の規律に対して大きな違いがあるのだ。1947年6月から1948年10月までに、第4条が第一次放送法案に入れられた経過がわかる資料は、日本で出版されている書籍には掲載されていないようだ。 第4条が定められた理由の一つとして推測できるのは、労働組合によるメディアの民主化運動とGHQの方針の変更と日本政府のメディアの左傾化に対する憂慮だろう。

GHQは、占領当初は労働組合の結成に好意的だった。そして1945年9月に読売新聞から始まった社内機構の民主化と戦争責任追及の動き(第1次読売争議)は、朝日新聞、毎日新聞にも及び、さらに全国に波及し多くの新聞社で代表者が更迭された。 しかし、冷戦の影響で、GHQの対日方針は転換期を迎える。GHQは新聞の左傾化を憂慮するようになっていく。

1947年6月には第2次読売争議が始まり、10月に一部の新聞でストライキが始まる。日本放送協会も10月5日からストライキを行った。翌日放送は国家管理に移される。 つまり1947年10月は、放送をめぐりファイスナー・メモの放送の自由の原則が示唆された一方で、民主化運動の流れに対して政府が規制を加えていた時期だった。その矛盾が、この第一次放送法案4条となって現れたといえるのかもしれない。


第一次放送法案の廃案

第一次放送法案は、提出時期が国会の閉会直前であったため、審議未了となる。そして、昭電疑獄事件で芦田内閣が10月に総辞職し、新たに総理大臣になった吉田茂政権の下、同法案は撤回される。 理由は、吉田茂が政府から独立した放送委員会が放送行政を行う体制に不賛成だったからだと指摘する文献がある。その後の放送法の国会成立までの経過に照らせば、この指摘は当たっているように思われる。


ニュース放送に関する原則に対するGHQ法務局の意見

こうして吉田内閣の下で撤回された第一次放送法案だったが、GHQ法務局(LS:Legal Section)がさらに意見を述べる。意見の中で厳しい論調なのは、第4条についてであり、全文の削除を勧告している。

二 第4条
A この条文には、強く反対する。何故ならば、それは憲法第21条に規定されている「表現の自由の保証」と全く相容れないからである。現在書かれているままの第4条を適用するとすれば絶えずこの条文に違反しないで放送局を運用することは不可能であろう。反対の側から言えば、政府にその意思があれば、あらゆる種類の報道の真実あるいは、批評を抑えることに、この条文を利用することができるだろう。この条文は、戦前の警察国家のもっていた思想統制機構を再現し、放送を権力の宣伝機関としてしまう恐れがある。――これは、この立法の目的としているところは、正反対である。放送が現在日本において、公の報道、教育機関として最も重要な手段であることを考えれば、上記の如き方向への発展(への可能性)の危険性は、如何に声を大にしても過ぎるということはない。 例えば、第2項は、ニュース評論(News Comentary)は、厳密に真実であり、編集者の意見を含まず「着色」していないことを要求している。しかし「評論」とは、定義によれば「個人の意見」の発表であり、「報道上及び教育上の価値判断」の顕現である。条文にあるような制限の下に「評論」が不可能であることは、自明の理であろう。政治の面を離れても「制限」を実行することはむずかしい。例えば、台風その他全国的天災等も第2項第2号によって報道するわけにはゆかなくなる。何故ならば、その報道は、公安を害するかもしれないからである。

B この条文を、弁護するものは、それが1945年9月19日SCAPIN第33号に基づいているというかもしれない。然し、SCAPINの内容と国内法とは、相違がなくてはならない。このSCAPIN第33号は純然たる国内事件を規律しようとしたものではない。それは「占領」に関係あることのみを目的としている。このSCAPINは意見の制限や抑圧に用いられたことがないのみならず、国内事件に関しては、それは1945年9月第660号及び1946年第99号SCAPINによって置きかえられている。

C 言論の自由抑圧を一掃するため、L・Sはこの第4条の全文削除を勧告する。何故なら放送の本来の目的は、「不偏不党」をも含めて第3章第46条、第47条で盡されているからである。

放送法制立法過程研究会編『資料・占領下の放送立法』(東京大学出版会、1980年)から引用。旧字体は新字体に改めた。
注:SCAPIN(Supreme Command for Allied Powers Instruction Note)とは、連合国軍最高司令部訓令と訳されている。連合国軍最高司令官(SCAP)から日本政府あてに出された訓令のことを言う。SCAPIN第33号は、プレス・コードを指す。

この訓令に従い、逓信省は第4条を削除して、新たに放送法案の策定を進めていく。

続きは「放送法制定の歴史のススメ③」で。

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放送法制定の歴史のススメ-①放送法はいつできたの?

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放送法を考えるためには、放送法制定の歴史をよく知っておくことが大切だろう。どのような法律もその制定経過にさかのぼることによって、条文の意味を理解することができるからだ。何回かに分けてまとめてみたい。

放送法ができたのは1950年。電波法と電波監理委員会の3つの法律がセットで作られたことから、あわせて「電波三法」と呼ばれている。第二次大戦の敗戦後のGHQによる占領期だった。放送法には日本を民主化しようと試みた工夫が随所にみられる。

制定の歴史にはいくつかの波がある。

  1. 日本国憲法の誕生から放送法の骨格が決まるまで
  2. 第一次放送法案の作成
  3. 現行放送法の案作成
  4. 国会審議
  5. 電波監理委員会の廃止

まず、日本国憲法の誕生から放送法の骨格が決まるまでを見てみよう。


日本国憲法の誕生

日本国憲法が国会で成立・公布されたのは、1946年11月3日で、施行されたのは翌年の1947年5月3日。基本的人権の尊重、三権分立、平和主義を3つの原則とする日本国憲法は、明治憲法とは根本的に異なるものになった。明治憲法下で作られたさまざまな法律は、日本国憲法に合わない部分があったので、一部改正されたり、全部廃止されたりした。その一環として、放送法が作られた。


放送には無線電信法が適用されていた

放送法ができるまでは、放送には大正時代にできた無線電信法が適用されていた。無線電信法ができたころは、まだテレビはなかった。放送は私設無線で、逓信大臣が電波の使用を許可し、政府が電波を専有していたから、放送が国家に管理される土壌があった。無線電信法の条文は、政府のウェブサイトでは確認できないけれど、「電気通信主任技術者総合情報」という個人のサイトに「電気通信関連法令集」というページの「廃止法・旧法」という箇所に条文が掲載されている。

1939年から実験放送がされていたようだが、本格的なテレビ放送が始まったのは1941年。それから70数年が経っている。もちろん最初は白黒放送。そのころは民間放送はなく、社団法人日本放送協会だけが放送していた。ちなみにカラーの放送が始まったのは1954年。前の年の1953年に、日本で最初の民間放送を日本テレビが始めている。


GHQから示唆

古い無線電信法は、テレビ放送に合わなかったし、何よりも戦前・戦中のテレビ放送が戦局について日本国民に誤った情報を流していたことに対する反省があって、日本国憲法の民主主義に合うように、表現の自由を確保して、自由に政治に対する批判を述べることができる社会を作る必要があった。 日本国憲法が国会で議論され、成立・公布が迫るなか、1946年10月、GHQの民間通信局(CCS:Civil Communication Section)が逓信次官にあてて、国民が基本的に通信の自由を持つという新憲法に合うように通信を民主化するように指示した。 逓信省は、同じ年の11月、次官を委員長とする臨時法令審議委員会を設置して、通信の関連法令の改正に着手した。1947年2月、4月、6月にそれぞれ無線電信法の改正案が作成される。6月の法案は、無線法の改正案と日本放送協会法案の2つの法案になっていた。 これらの法律案の条文はいまとなっては、文書が残っておらず正確には分からない。ただ、荘宏・松田栄一・村井修一『電波法 放送法 電波監理委員会設置法詳解』(日信出版、1950年)には、それらの改正案の骨子が紹介されている。

こうした逓信省の立法作業と並んで、GHQ民間通信局も放送に関する法律の検討をしていた。多くの文献が指摘しているように、日本の放送のあり方に大きな影響を与えたのは、ファイスナー・メモである。これは、1947年10月16日に、GHQ民間通信局のファイスナー調査課長代理が示唆した内容である。 放送法の制定について調べるときに、とても役に立つのが、放送法制立法過程研究会編『資料・占領下の放送立法』財団法人東京大学出版会(1980年)。GHQと逓信省のやり取りなどの資料がまんべんなく掲載されている。それによると、ファイスナー・メモは次のようなものだった。

  • 新しい法律は、①放送の自由、②不偏不党、③公衆に対するサービスの責任の充足、④技術的諸基準の順守の4原則に立つこと
  • あらゆる種類の放送を管理し、国内放送、国際放送を運用する機関の設立を規定すること。この機関は、すべての日本政府の行政官庁、政党、政府の閥、政府の団体、個人の集団等から完全に独立した「自治機関」でなければならない。
  • 将来、日本の経済状態が許す時が来た場合には、民間会社による放送を認めることができるように、民間放送の助長に備えた規定を設けておくこと

このファイスナー・メモにしたがって、逓信省が放送法案の策定を進めていく。

続きは「放送法制定の歴史のススメ②」へ。

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